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キリシタン殉教史跡

津和野乙女峠

福者認定へ調査開始

2019年、ローマ教皇庁(バチカン)からカトリック広島司教区(広島市)に連絡が届きました。「山陰の小京都」と呼ばれる津和野(島根県)で殉教した37人が「福者」として認定されるための調査が始められたと。調査後、認められれば、明治以降に殉教した日本人では初めての福者になります。

福者とは、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号であり、この称号を受けることを列福と呼び、カトリックでは「聖人」に次ぐ地位にあたり、日本では、戦国時代にキリシタン大名だったの高山右近など、計394人に授与されています。

浦上四番崩れ

かつて江戸時代末期から明治初期、現在の長崎市で大規模な隠れキリシタンの摘発事件が起こりました。江戸幕府の禁教令の下、長崎・浦上のキリスト教徒は潜伏しながら信仰を伝承していました。1865年、長崎を訪れたフランス人神父にひそかに信仰を告白し、「東洋の奇跡」として世界に知られましたが、その後、信徒が仏式の葬儀を拒否したことにより江戸幕府長崎の役人にも知られ、「崩れ」と呼ばれる検挙が始まりました。浦上で1790年にあった「一番崩れ」から4回目の弾圧事件となり、その後、江戸幕府は

瓦解となりますが、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって浦上村の村民たちは流罪とされることになりました。
1868年、明治政府により太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示され、木戸孝允らが長崎を訪れ処分を協議、捕縛された約 3400 名のキリシタンは西日本各藩に流配、津和野藩には 153 名が流配され、その記録は多くの研究者、とりわけカトリック宣教師たちによって残されています。

津和野藩への流配と信徒幽閉

信徒らは長崎から津和野藩の御船屋敷(廿日市)まで船で運ばれた後、津和野街道を90キロほど歩かされ、津和野城下の光琳寺の本堂に幽閉されました。浦上村の隠れキリシタンは多くが農民で、神道研究が盛んだったことから、津和野藩は当初、無学な農民を改宗させるのはたやすいと見て、穏便な説論による改宗を試みました。しかし、津和野に配流されたのは浦上村信徒

の中でもリーダー格やその家族らで、その多くが改宗を拒み、棄教する者はいなかったため、ひどい拷問が行われることになりました。そして、その過酷さと残虐さはかつてないほどだったことが記録に残され、1870年までに37人の殉教者を出してしまうことになりました。

乙女峠マリア聖堂

聖堂が所在する山は、地元では津和野城の城主の娘が埋葬されたことから「乙女山」と呼ばれており、広島司教区は1939年に田畑などになっていた光琳寺の跡地を購入、1951年に「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる」聖堂として乙女峠記念堂が建立しました。乙女峠の呼び名は同年にこの歴史を綴った絶筆『乙女峠』が刊行されたことにも由来、聖堂は聖母マリアに献堂されたことからのちに「マリア聖堂」と呼ばれるようになりました。そしてこの場所は聖母マリアが降臨された地ともいわれている場所になりました。

今日、乙女峠記念堂では、毎年5月3日に殉教者を偲ぶ「乙女峠まつり」が行われ、カトリック津和野教会から北西に2キロ離れた乙女峠まで行列が続き、「乙女峠殉教者を偲ぶミサ」が野外で行われる。教会に隣接するカトリック系の津和野幼花園(保育所)の園児やキリスト教関係者など県内外から約1500人が訪れています。

津和野の幼い証し人

モリちゃん

津和野乙女峠殉教者の中にはわずか1歳の乳呑み児から71歳の高齢者まで37人が信仰のために命を落とすことになり、もりちゃんもその中の5歳の女の子でした。「浦上四番崩れ」に端を発したこの“浦上キリシタンの流配”と言われる事件で、キリシタンは岡山・福山・広島・鳥取・松江・津和野・萩の各地に流配されました。中でも津和野藩は、新政府の宗教行政の中心にいた藩主亀井玆監により、当初の説諭からついには拷問による改宗に方針を変更することになりました。「もりちゃん」は、津和野での幼い証し人の一人です。飢えに苦しむ子どもたちにおいしいお菓子を見せた役人が、「食べても

いいがそのかわりにキリストは嫌いだと言いなさい」と言うと、もりちゃんは、「お菓子をもらえばパライゾ( 天国)へは行けない。パライゾへ行けば、お菓子でも何でもあります」と答えて、彼女は永遠のしあわせを選ぶことになりました。
もりちゃんの面影は乙女峠のマリア聖堂の内部には美しいステンドグラスに残っています。このステンドグラスには拷問の厳しい様子が描かれ、その中の1枚にモリちゃんに行った役人の拷問の様子が描かれています。
カタリナ岩永もり(明治4年7月20日(1871年9月4日)死去6才)